

はじめに:開発の手を止める「在庫なし」の壁
電子工作愛好家からプロの組み込みエンジニアまで、多くの開発者が今、ある深刻な事態に頭を抱えています。
「いつものSTM32が売っていない」、あるいは「価格が数倍に跳ね上がっている」という現象です。
特に、入門用として名高い「F103シリーズ」や、高性能で使い勝手の良い「F4シリーズ」の入手難易度が高止まりしています。
設計図は完成しているのに部品が手に入らない、あるいは量産しようとしたら納期が50週と言われた、といった経験はないでしょうか。
本記事では、なぜ世界標準とも言えるSTM32マイコン、特に人気シリーズがこれほどまでに入手困難なのか、その構造的な理由を解き明かします。
さらに、ただ入荷を待つだけでなく、プロジェクトを前に進めるための具体的な「代替案」と「移行ステップ」を、最新の市場動向を交えて詳細に解説します。
これを読めば、部品枯渇に振り回されない、強靭な設計スキルが身につくはずです。


第1章:言葉の定義と背景:STM32神話の崩壊
まず、対象となる製品とその重要性、そしてなぜこれほど影響が大きいのかを定義します。
STM32とは何か
STM32は、スイスに本社を置くSTマイクロエレクトロニクス社が製造する、Arm Cortex-Mコアを搭載した32ビットマイコンのシリーズ名です。
その圧倒的なラインナップの豊富さ、開発環境の整備状況、そしてコストパフォーマンスの良さから、産業機器から家電、ホビー用途まで、事実上の「業界標準」として君臨しています。
なぜF103とF4が特別なのか
今回、特に不足が叫ばれているのが以下の2シリーズです。
- STM32F103(Mainstream Performance):通称「Blue Pill」と呼ばれる安価な開発ボードに搭載されており、最も普及しているモデルです。登場から時間が経過していますが、膨大な既存資産(ライブラリやノウハウ)があるため、エンジニアが離れられない存在です。
- STM32F4(High Performance):F1よりも高速な処理能力と浮動小数点演算ユニット(FPU)を持ち、ドローンや3Dプリンタ、高度なセンサー制御になくてはならない存在です。
構造的な「老朽化」のリスク
背景にあるのは、これらのチップが「レガシー(古い)」プロセスで作られているという事実です。
F103などは比較的古い製造技術を用いています。半導体業界全体が最先端の微細化プロセス(7nmや5nmなど)へ投資を集中させる中で、利益率の低い古いプロセスの生産ラインは縮小傾向にあります。
つまり、人気はあるのに作る場所が減っているという、需給のミスマッチが起きているのです。
第2章:具体的な仕組み:なぜ供給が途絶えるのか?
「半導体不足」とひとくくりにされがちですが、F103/F4シリーズの枯渇には特有のメカニズムがあります。
ここでは、製造と流通の舞台裏を図解的に文章で表現します。
1. ウェハ割り当ての「共食い」構造
半導体の材料であるシリコンウェハは有限です。
ファウンドリ(受託製造工場)の視点で見ると、以下のような優先順位の争いが発生しています。
[イメージ解説:工場の生産ラインの奪い合い] 1枚のピザ(工場の生産能力)を想像してください。
- かつて:家電やPC向けが大きなピースを占め、マイコンも安定して焼かれていました。
- 現在:このピザの巨大な部分を「自動車(EV)」が奪い取っています。自動車は1台あたり数百〜数千個の半導体を使い、その多くがSTM32Fシリーズと同じような「レガシープロセス」で作られます。
- 結果:自動車メーカーの巨大な購買力に押され、産業機器や民生用マイコン向けの生産枠(スロット)が物理的に狭められています。
2. 製造プロセスの「世代交代」圧力
メーカーであるSTマイクロエレクトロニクス自身も、戦略的な決断を迫られています。
古いF1シリーズ(例:180nmプロセスなど)を作り続けるよりも、より新しいG0やC0シリーズ(90nmや40nmなど、より効率的なプロセス)を作ったほうが、1枚のウェハから取れるチップの数が増え、コストダウンと性能向上が図れます。
そのため、メーカーは「F1を作るライン」を徐々に「新しいシリーズを作るライン」へ改装したいという動機があります。
公式に生産終了(EOL)とは言わなくても、実質的な生産優先順位を下げることで、ユーザーに新しいチップへの移行(マイグレーション)を促している側面があります。
3. 流通在庫の偏在とブローカーの暗躍
Digi-KeyやMouserといった正規代理店から在庫が消えると、次は「流通市場(市場在庫)」での争奪戦になります。
ここでは、中国を中心としたブローカーが人気品番(F103C8T6など)を大量に確保し、価格を釣り上げています。
本来数百円のチップが、数千円で取引される異常事態は、この流通の歪みによって増幅されています。
第3章:作業の具体的な流れ:代替案への移行ステップ
では、F103/F4が手に入らない場合、具体的にどうすればよいのでしょうか。
現実的な5つのステップを提示します。
ステップ1:ST社内の「モダンシリーズ」への移行を検討する
他社へ乗り換える前に、STマイクロエレクトロニクスが推奨する新しいシリーズを確認します。
これが最もソフトウェアの移植が楽な方法です。
- F103の代替候補:STM32G0 または STM32C0 シリーズ
- これらはF1より安価で高性能、かつ入手性が比較的良好です。ただし、ピン配置が完全に一致しない場合が多いため、基板の改版が必要です。
- F4の代替候補:STM32G4 または STM32H5 シリーズ
- アナログ機能が強化されており、モーター制御などではF4以上の性能を発揮します。
ステップ2:「ピン互換」のクローンチップを試す
基板を変えずに、部品だけ差し替えたい場合の選択肢です。
中国メーカーがSTM32と(ほぼ)ピン互換・レジスタ互換のチップを製造しています。
- GigaDevice (GD32F103/F303など): 最も有名な互換品。動作クロックが本家より速い場合がありますが、USBのタイミングやADC(アナログ・デジタル変換)の挙動に微妙な差異があるため、十分な評価が必要です。
- Artery (AT32): コストパフォーマンスに優れ、入手性が良い場合があります。
ステップ3:入手性が最強の「RP2040」へ設計変更する
Raspberry Pi財団が開発したマイコン「RP2040」は、世界的に在庫が潤沢です。
- メリット:安価(100円前後)、入手性抜群、ドキュメントが親切。
- デメリット:アーキテクチャが全く異なる(Arm Cortex-M0+のデュアルコア)ため、プログラムは書き直しになります。しかし、長期的な供給安定性を求めるなら最有力候補です。
ステップ4:ソフトウェア資産の移植(HALの活用)
STM32CubeMXやHAL(Hardware Abstraction Layer)ライブラリを使っている場合、シリーズ間の移行は比較的スムーズです。
- CubeMXで新しいMCU(例:STM32G0)を選択し、プロジェクトを新規作成。
- 周辺機能(GPIO、UARTなど)の設定を旧プロジェクトと同じにする。
- アプリケーション層のコード(
main.c内のロジック部分)をコピー&ペーストする。 これにより、ハードウェアの差異をライブラリがある程度吸収してくれます。
ステップ5:モジュール化によるリスク分散(将来対策)
今後のために、マイコン部分を直接メイン基板に実装するのではなく、「マイコンボード(ドーターカード)」として独立させる設計手法を取り入れます。
例えば、マイコンが載った小さな基板を、メイン基板にコネクタで接続する形式にします。
こうすれば、将来またマイコンが枯渇しても、その小さな基板だけを設計変更すれば済み、システム全体を作り直す必要がなくなります。
第4章:最新の技術トレンドや将来性
マイコン不足をきっかけに、技術トレンドも変化しています。
RISC-Vアーキテクチャの台頭
Arm系マイコンのライセンス料や供給不安を回避するため、オープンソースの命令セット「RISC-V」を採用したマイコンが急増しています。
特に中国のWCH社が製造する「CH32V」シリーズは、STM32F103とピン互換でありながら、中身はRISC-Vというユニークな製品です。価格が非常に安く(数十円〜)、ローエンド領域での置き換えが進んでいます。
供給の「多重化」が常識に
かつては「部品選定は1社に絞る」のが効率的とされましたが、現在は「セカンドソース(第二の供給元)」を確保できる部品を選ぶのが常識になりつつあります。設計段階で、NXP、Renesas、Microchipなど、異なるメーカーのマイコンでも機能を代替できるよう、抽象度の高いプログラム記述(PlatformIOやArduino、Zephyr OSの活用)が注目されています。
STマイクロエレクトロニクスの新工場稼働
悲観的な話ばかりではありません。
ST社もイタリアやフランス、そしてシンガポールなどで大規模な新工場の建設・拡張を進めています。
特に40nm以下のプロセスへの投資が進んでおり、将来的にはU5シリーズやH5シリーズといった新しい世代の供給能力は劇的に改善すると予測されています。
第5章:よくある質問(FAQ)
Q1. AmazonやAliExpressで売っているF103は本物ですか?
A. 非常に注意が必要です。「リマーク品」と呼ばれる偽物が混在しています。
これは、似たような別の安いチップの表面を削り、STM32の型番をレーザー刻印し直したものです。
開発中に謎の動作不良(書き込みができない、特定の機能が動かないなど)に悩まされる原因となるため、業務利用では正規代理店、あるいは信頼できる商社からの調達を強く推奨します。
Q2. 結局、F103はいつ生産終了(EOL)になるのですか?
A. STマイクロエレクトロニクスは「10年間の長期供給保証」を掲げており、F103もリストに含まれている限り、公式にはEOLになりません。
しかし、「カタログにはあるが、注文しても入ってこない(あるいは納期未定)」という状態は今後も続く可能性があります。
新規設計での採用は避け、保守用途以外ではG0などの新シリーズを使うべきです。
Q3. GD32(互換品)を使う場合の法的な問題はありますか?
A. チップ自体を購入して使用することに違法性はありません。
ただし、STM32純正の開発ツールやライブラリの一部には、ライセンス条項で「ST製デバイスでの実行に限る」と明記されている場合があります。
互換チップで開発を行う際は、メーカーが提供する独自のライブラリや、オープンな環境を使用するなど、ソフトウェアライセンスの確認が必要です。


まとめ
STM32 F103/F4シリーズの入手難は、一時的な不運ではなく、半導体産業の構造変化に伴う必然的な現象です。
- 原因: 自動車需要によるレガシープロセスの奪い合いと、メーカーによる次世代品への誘導。
- 対策: F1/F4に固執せず、G0/C0/G4 などのモダンなSTM32へ移行する。
- 回避策: 納期優先なら RP2040、コスト優先なら RISC-V互換品 を検討する。
「慣れ親しんだ部品がない」という危機は、新しいアーキテクチャや、より効率的な最新デバイスに触れる絶好の機会でもあります。
この波を乗りこなし、より柔軟で持続可能な設計スキルを手に入れてください。
変化を恐れず、新しいマイコンの世界へ一歩踏み出しましょう。


